講座 生存基盤論 [全6巻]
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本講座の刊行によせて
アジア・アフリカの熱帯地域には, 現在世界人口の約半分が住んでおり, その比率は今後さらに上昇するものと考えられる. 資源・エネルギー価格の激変や地球温暖化によって最も深刻な影響を受けるのも, 発展途上国の多いこの地域である. かれらのつくる地域社会にとって, どうしても欠かせない「生存基盤」とは何か. また, 人類は地球環境の持続性を維持できるような生存基盤をどのようにつくっていけばよいのか. 本講座は,これまでの開発研究の中心的話題だった 1 人当たり所得, 教育, 健康などの「人間開発」の側面に加え, 大地, 空気, 熱, 水などから成る生存のための環境を与えるとともに, 化石資源を供給し, 地震, 津波や噴火によって人間圏をおびやかす「地球圏」, 生命のつながりを人間と共有し, 生物多様性や生態系の持続性への考慮をわれわれに求めている「生命圏」の二つの圏を視野に入れた「生存圏」の概念を提起することによって, こうした問題に新しい光を当てようとするものである.
これまでのアジア・アフリカ研究の多くは, 欧米や日本の歴史的経験に基づいた, したがってアジア・アフリカ地域全体からみればバイアスのかかった認識枠組から自由ではなかった. 認識の偏りは,地域研究や開発研究に限らず, 多くの研究者や知識人に共有されている. 本講座では,そうした傾向を克服するために, これまで「地表」から人間の眼で見てきた世界を, より三次元的で複眼的な「生存圏」から捉え直すことを提案する. そして, 現在なお広く共有されていると思われる二つの見方の根本的な転換を示唆する.
その第一は,「生産」から「生存」への視座の転換である. 産業革命以降の世界で「先進国」となった欧米や(戦後の)日本のような国では, 社会の目標が「生産」, とくに 1 人当たり所得で測った生活水準の上昇に結びつく「生産性の向上」に集約されることが多かった. 技術も制度も生産力の上昇を念頭において発達してきた. そうした社会では「労働」, とくに「公共圏」 における労働のあり方が社会の価値を集中的に表現してきた. しかし,より長期のタイムスパンをとり, 先進国だけではなく世界を分析単位とするなら, このような「生産」への関心の集中は, 限られた時期に, 一部の地域で有力になった現象にすぎない. 現生人類が 20 万年以上にわたって生き延びてきたのは, 生産も含めた, しかしより根源的な, 「生存」の力を鍛えてきたからである. そして, その主たる鍛錬の場は公共圏というよりは, 家族や隣人のつながりから構成され, 再生産を担う「親密圏」であり, それは, 生命圏や地球圏からもたらされる疾病や災害に対処する場でもあった. そこでの価値を表現するのは労働というよりは広い意味における「ケア」のあり方である. 現在必要とされているのは, 生産性の向上や労働の尊さといった価値を否定することなく, しかしその意味を, もう一度この「生存」の観点から捉え直すことではないだろうか.
第二は,「温帯」から「熱帯」への視座の転換である. 熱帯は地球が得る太陽エネルギーの大部分を吸収し, 大気や海流の動きをつうじて, 温帯などにその一部を配分している. つまり, 地球の物質・エネルギー循環の中心は熱帯である. また, それとも関連して, 生物相(動植物, 細菌など)の活動は熱帯において最も活発である. 生物多様性の問題に挑み, 地球全体の生命圏の力を引き出すには, 熱帯を中心に考えなければならない. そればかりではない. 人類は 1 万年以上にわたる作物化, 家畜化, 耕地の拡大をつうじて, 自然をみずからの必要にあわせて改変してきたが, それは決して温帯の, 資源の稀少な環境で始まったのではない. 熱帯の自然の圧倒的な力に跪き, 戦いながらもそれとの共生を求めて, 人間社会の側から自然を「ケア」する努力が積み重ねられてきたのである. にもかかわらず, 過去 2 世紀にわたる技術, 制度の革新は, ほとんどが温帯で生み出されてきた. 工業化の論理は生命圏との共生の論理ではない. 現在人類が消費するエネルギーは, 生活用のそれを含めても, じつに 7 割以上が化石エネルギーである. われわれは, 地球環境における熱帯の本質的な基軸性と, 技術や制度の発達における温帯の主導性との間に大きなミスマッチをみる. これを矯正しなければ, 人類が地球環境を理解し, それと共生していくことはできない. 温帯に住む人々も, 熱帯を中心とした地球「生存圏」の全体と正しく共鳴しなければ生きていけなくなるのではないだろうか.
本講座の課題は, このような問題意識から, 人類の生存基盤が持続する条件をできるだけ幅広く探ることである. 人間環境の持続性を分析する基本単位として「生存圏」を設定し, そこで個人が生きるために, あるいは地域社会が自己を維持するために必要な物質的精神的諸条件を「生存基盤」と呼ぶとすれば, われわれの最終目標は, ローカルな, リージョナルな, あるいはグローバルな文脈で, 持続型の生存基盤を構築する可能性を具体的に明らかにすることである. 生存基盤論は, そのための分析枠組として構想された.
本講座は, 京都大学グローバルCOE「生存基盤持続型発展を目指す地域研究拠点」(2007―2012 年)の最終成果報告であり, 中間報告として刊行した 『地球圏・生命圏・人間圏 ― 持続的な生存基盤を求めて』(杉原薫・川井秀 一・河野泰之・田辺明生編, 京都大学学術出版会, 2010年)を継承, 発展させたものである.
2012 年 3 月
杉原 薫