西洋古典叢書




『西洋古典叢書』第Ⅳ期刊行に向けて
西洋古典叢書編集委員・京都大学教授  中務哲郎

痩せ我慢の集う「西洋古典叢書」

 九度山(くどやま)の慈尊院から高野山壇上(だんじょう)へと至る道に沿って180基の町石(ちょういし)が建てられている。五輪塔を戴く背の高い石柱で、信心の篤い人はこれを一つ一つ数えながら登って行くという。敢えて近道は採らず、電車とケーブルも使わないのである。「西洋古典叢書」という営みも信仰の登山に似たところがないでもない。1997年6月に呱々の声を上げた本叢書は第Ⅲ期までに63冊の道標を建て、今第Ⅳ期25冊に向かおうとしている。
 本叢書の訳者の多くはギリシア語・ラテン語初学の頃には、明日の演習のために徹夜に近い予習をしながら、これだけの時間に新書の一、二冊も読めばさぞ有意義であろうに、と思わぬ夜とてなかった。そこを我慢して辞書を繰り注釈書と格闘したのである。版元もいわゆる売れ筋なるものをよく承知していながら、文学部でも昨今最も人気のない西洋文献、その中でもとりわけ敬遠される古典文献学に立脚した作品群を、敢えて叢書として翻訳刊行しようとする。武士の商法としか言いようがない。読者もまた江湖に軽易な出版物の溢れる中で、敢えて寝っ転がっては読めない、噛みごたえのある書物を愛してくださる方々である。叢書をめぐる訳者と版元と読者と、いずれ劣らぬ痩せ我慢の人と称すべきであろう。
 最低300頁を読むことを日課にした文芸評論家は尊敬に値するが、本叢書はどの一冊をとってもその速度で読むのは困難であろう。原典の訳を読むというのはそれほど安易ではない、痩せ我慢を要する業である。編集子たちは読者の痩せ我慢に助けられつつ、これまではマイナーな古典の紹介、本邦初訳に力を注いで来たが、第Ⅳ期では些か自縛を解いた。
 プルタルコス『英雄伝』が始まる。プラトンでは名作中の名作『饗宴/パイドン』が現れる。『ソクラテス言行録』でクセノポン全集が完結する。『ギリシア教訓叙事詩集』は教訓叙事詩という知られざるジャンルを初めて紹介するし、『テュアナのアポロニオス伝』は、イエス・キリストの福音書に対応するものが異教世界にも存在したことを教えてくれる。ローマ最大の歴史書リウィウスがいよいよ登場する。『古代音楽論集』、テオプラストス『植物誌』、アキレウス・タティオスの新しい訳も見逃せない。
 「西洋古典叢書」は180冊では止まらぬ予定、痩せ我慢読者諸氏の渝(かわ)らぬご支援を庶幾(こいねが)うものです。


『西洋古典叢書』第Ⅲ期刊行に向けて
西洋古典叢書編集委員・京都大学教授  内山 勝利

 古代ギリシア・ローマ古典を余さず邦訳刊行することを最終的な目標として、この叢書の第1冊目が出されたのは1997年の春だった。これが途方もない企てであることは誰の目にも明らかであろう。中心的な推進役の藤澤令夫先生、故・藤縄謙三先生、故・岡道男先生にはむしろ一入危惧の念があったにちがいないが、大事業への着手にしては、編集委員会などもごく淡々と進められていくのがかえって印象的だった、しかし「なすべきことだから始めるのだ」という端的な石が共有されていることが、末席に連なっていたわたしにも強く感じられた。
 以来6年半を経て、第Ⅰ期15冊、第Ⅱ期31冊がほぼ予定通りに刊行された。当初一つの通過目標として意識された通巻50冊は目前である。まずは無事に企画の歩みを安定させるところまではきた、ということができよう。引き続き、来年早々には第Ⅲ期22冊の刊行が開始される。ここに至るまでにも、邦訳担当者、出版会スタッフをはじめとする関係者の熱意と努力は、むろん並大抵ではなかった。もとより、この出版を支持し息長く購読をつづけてくださっている方々の存在なくしては、ここまでの持続は不可能であったこと自明である。
 しかし、計画の膨大さは今ごろやっと実感できるようになったところでもある。既刊46冊には、すでに西洋古典のもつ力の大きさと手応えの重さが十分に示されていようが、実は、これはまだ全容のわずかな一端でしかない。これまでこの叢書は、我が国での古典作品の全般的な邦訳状況との相補性を考慮に入れながら、出版書目の編成を図ってきた結果、本邦初訳作品、既訳があっても入手しにくいものなどに重点を置いてきた。第Ⅲ期もなお同様のコンセプトを基調としており、初訳の重要作品が大半である。そのためでもあるが、ここにはまだホメロスもギリシア悲劇詩人たちも、あるいはキケロもホラティウスも、またその数え上げきれないほどに多くの著名な著作家や彼らの作品が見当たらないままである。言うまでもなく、いまだ広く知られていない著作家による貴重な作品はさらに多い。ここにきて、西洋古典という大樹海の延々たる広がりを、改めて思い知らされるばかりである。なおしばらくは、この(魅力に満ちた)深い森の中へとひたすら突き進むしかあるまい。やがて壮大な眺望の開けるところまで、皆さまからの変わらぬご支持とご支援をいただけますよう、念じてやみません。



『西洋古典叢書』第Ⅱ期刊行に寄せて

 幕末・明治から150年、「西洋」摂取の戦略によって日本は急速に近代化を達成し、大戦で叩かれた後は、「強兵」を諦めてもっぱら「富国」への道を邁進してきた。今日、かつての「和魂」は消散したかに見え、他方「洋学」としての科学技術文明は、その恩恵の反面、さまざまの深刻な負の波及効果を顕在化させている。この状況の中でいまこそわれわれは、ここに初めて西洋の知と教養の巨大な全容を読者に提供するべく蓄積された学会の総力を傾けて、息の長い努力をつづけていくつもりである(編集委員代表・藤澤令夫)。
——このように宣言してスタートした本叢書は、約1年間の中断を経て、ようやく第Ⅱ期を刊行開始できることになりました。第Ⅱ期は、規模的にも第Ⅰ期に倍する全31冊で構成され、哲・史・文、およびギリシア・ラテンのバランスを考慮しつつ、年間10冊ずつ約2年間にわたって継続刊行する予定です。
 本叢書第Ⅱ期の特色は、第Ⅰ期同様に本邦初完訳に主力を置きながら、著名な古典については果敢に新訳に挑戦していることです。とりわけ、西洋古典のユニークな一分野を形成する弁論集や、資料的に貴重な初期ストア派断片集の初完訳、トゥキュディデス、アリストテレス、ウェルギリウスの代表作の新訳など、愛好家、研究者の皆さまの期待に十分にお応えできるラインナップとなっております。第Ⅰ期に引き続いて、あるいは新たな西洋古典との実りある出会いをこれらの中で体験されますことを心から祈ってやみません。



編集の辞 大事業に着手する機、ようやく熟す
編集委員代表・京都大学名誉教授 藤澤 令夫

 日本は十九世紀の半ばから、長年の鎖国を解いて、西洋文明を積極的に受け入れはじめた。受容の姿勢は総じて「和魂洋才」、学問については「実学」の思想、掛声としては「富国強兵」であった。すなわち、日本古来の「魂」を恃みとして、西洋の学問と文明からは、国力増強に役立つ実益的なその先端部分を集中的に輸入する、ということである。  影響は後のちまで尾を引いた。学問分野では当然、理工系が法科経済と共に重んじられ。文学部系の洋学は、“虚学”として冷遇されることになる。そしてその虚学のうちでも、実に哲学においてさえ、最先端至上主義が幅をきかせてきた。  だがいうまでもなく、西洋の学問と文明はただ「才」としてあるのではなく、その長い伝統を培ってきた母体(マトリックス)があり、「魂」がある。その具体的な姿がギリシア・ローマの古典であって、わが国において和漢の古典籍がそうであったように、西洋の伝統においてこれらの古典は、知と教養の源泉でありつづけたのである。  けれども西洋文明受容の基本姿勢が上述のごとくであった以上、これと取り組むだけの本格的な力量は、わが国では容易には育まれず、一部は邦訳されたが、膨大にして多種多様なギリシア・ローマの古典の大部分は、まだ手つかずのまま残されている。  いまやしかし、こうした点の反省の上に立つ「日本西洋古典学会」の創設からも半世紀近く経ち、大学におけるこの道の教育と研究の進展と相まって、哲・史・文にわたる西洋古典の各領域に習熟した研究者層の厚さ広さは、昔日の比ではない。ギリシア語とラテン語で書かれたその原典の全部を、正確で平明な日本語に翻訳し公刊するという大事業に着手する機が、ようやく熟したといえるだろう。  幕末・明治から150年、「西洋」摂取の戦略によって日本は急速に近代化を達成し、大戦で叩かれた後は、「強兵」を諦めてもっぱら「富国」への道を邁進してきた。今日、かつての「和魂」は消散したかに見え、他方「洋学」としての科学技術文明は、その恩恵の反面、さまざまの深刻な負の波及効果を顕在化させている。この状況の中でいまこそわれわれは、ここに初めて西洋の知と教養の巨大な全容を読者に提供するべく蓄積された学会の総力を傾けて、息の長い努力をつづけていくつもりである。



『東西文明の接点に立つ日本人にとってこそ!
編集委員・京都女子大学教授 藤縄 謙三

 古代のギリシア人とローマ人が後世に遺した古典は、ホメロスの生気あふれる英雄叙事詩に始まり、自然研究をも含めて、あらゆる分野の学芸を開花させた上で、次第に衰微し、ローマ帝国末期にキリスト教的著作へと移行して終わる。今日の日本人の立場から見ても、これらの古典の全体は、比類なく充実した一つの文明圏の歴史の多面的な記録として、絶対的な価値を有しており、これを欠いては、世界史の中心部分が崩れてしまうだろう。
 狭義での歴史記録はヘロドトスとトゥキュディデスによって始められ、それ以来、同時代史記述は連綿として続けられたが、それ以外にも直接に歴史に関係する種々の著作がある。たとえば、弁論術の盛時には、その時の必要に応じて政治や裁判の演説が執筆され、それらは単なる実用の枠を超えて、文学作品として保存されてきた。普通の史書に加えて、これらの弁論などをも読めば、遠い昔の歴史を追体験することができる。
 さらに進んでは、多種多様な古典の中からたとえば文明の盛衰の原因などを探り出すことも可能であろう。現代文明が行き詰まりつつあるとき、自身の切実な問題を意識しながら、しかも東洋人または日本人として読むならば、古めかしい古典の中にも必ずや新しい意味を発見するはずである。東洋の古典にも深遠な真理は含まれており、そこから私たちは欧米人とは異なる思考力を養育されているからである。
 東洋の古典は、概して視野が狭く、表現は暗示的で、物事を明確に語ってくれない。それに対して西洋の古典は叙述が精細で、論理も明晰であるから、幸いなことに日本語などへも正確に翻訳することが出来る。それだけ普遍性を帯びているわけであり、世界の問題を直視し、根本から解明するための基盤や素養は、何よりも、これらの泰西の古典を読むことによって得られるように思われる。とりわけ東西文明の接点に立つ日本人にとって。



古典の普遍の価値に照らし、「人間」を問う
編集委員・姫路獨協大学教授 岡 道男

 およそ文学は世界における人間のあり方を問うものであるが、古代ギリシア・ローマの詩人、作家たちは、一方の対極に「不死」である神を据え、他方の対極に「死すべきもの」である人間を置くという、きわめて先鋭的な形でこの問題の解決をもとめ、人間の本質をえぐり出すことに成功した。世界文学において、自由、秩序、調和、フーマーニタース(人間であること、品位)などの理念がかれらによってはじめて明確に捉えられたのはけっして偶然ではない。ギリシア・ラテン文学がルネッサンスにおいて人間を中世以来の様々な抑圧から解放して近代・現代ヨーロッパ文学の成立、ひいてはヨーロッパ精神の形成にみちびき、今なお「古典文学」として尊ばれ、人間形成のための規範として仰がれるのも、それが普遍的理念を体現する人間像を呈示しているからである。
 この人間像は、言語の彫琢と文学形式の探求によって驚嘆すべき芸術的完成に到達した。そこには、一時的なものと永遠なものを見分け、本質的なものをできるかぎり的確に捉えて表現しようとする、倦むことのない努力が見られる。後代の文学において模範とされた、叙事詩、叙情詩、ドラマ(悲劇、喜劇)、小説(ロマンス)、風刺詩、恋愛詩などの文体の形式の確立もまた、そのような努力の結実であった。
 古典古代の文学は、二千数百年の歳月を経た今日においてなお、汲めども尽きぬ泉のように新しい生命に満ちあふれている。本叢書が現存のギリシア・ローマの文学作品をもっとも信頼できるテクストにもとづいて平易な現代語に翻訳し、広く読者に提供するのも、価値の変動のはげしい現代において、人間とは何かという問題を古典の不変の価値に照らして改めて考えるきっかけとなれば、との願いからにほかならない。